前へ旅コム目次アラスカ目次

アラスカの歴史


 シベリアからアラスカへ人類が移動したのは約二万五千年前から六千年前までとみられ、この頃シベリアとアラスカはベーリング海底が露出して地続きであった。この地続きは約一万年前までと言われ、その後海となったベーリング海の沿岸に人々が生活するようになったのは、五千年から三千年前のことである。アラスカには、東南部にティムシャン、ハイダ、クリンキットといったインディアン達が、内陸部にはアサバスカン・インディアンが、アラスカ半島からアリューシャン列島にはアリュート人が、北極海沿岸からベーリング海沿岸にはエスキモーの人々が定住した。

 1741年7月15日、ロシア皇帝の命を受けて北極を探検していたデンマーク人船長V.ベーリングがアラスカの島を発見、初めて白人がアラスカに上陸した。この折りロシアに持ち帰ったラッコの毛皮がブームを起こし、早くも1743年にはロシア人がシベリアを経由してベーリング海の島々に押し寄せラッコの狩猟を集中的に行うことになる。ロシア人と原住民との毛皮の売買はこの後百年ほど続くが、ラッコは絶滅寸前へと向かい、また原住のアリュート人もロシア人によって非常に悲しい歴史を残す結果となる。

 1784年にロシアは最初の植民地基地をゴディアック島に設立、1799年にはロシアの探検家アレキサンダー・バラノフがシトカに基地を建設し、ロシア皇帝の旗を揚げてアラスカをロシア領として、ここを足がかりに南はカリフォルニアまで交易を広めた。交易はロシア・アメリカ会社を窓口に行い、毛皮が主に中国へ、そして後年シトカの氷やキナイ半島で産出した石炭がカルフォルニアへと輸出された。シトカには貿易港として各国の船が行き交い「太平洋のパリ」と呼ばれるほどに発展する。またロシアは原住民へのキリスト教の布教にも力を注ぎ、コディアックやシトカ、キナイ、プリビロフ諸島などには今もロシア正教会が残っている。

 それまでの1774年から1794年にかけて、キャプテン・クックやキャプテン・バンクーバーなどが次々アラスカを海から探検している。

 1853年、ロシアはトルコとクリミア戦争に突入して南下政策に挫折、戦後の疲弊に乗じて英国にアラスカを奪われることを憂慮して、アメリカにアラスカの譲渡を提案した。

 1859年に譲渡交渉が開始、ついにアメリカへ 720万ドルでアラスカを譲渡することに決定して1867年3月30日調印が行われた。アメリカ側でこの交渉をまとめた米国国務長官ウィリアム・スワードは「巨大な冷蔵庫を買った男」と国内で非難されるが、今日では彼の功績は高く評価されている。

 その後アラスカは、1872年にシトカ、1874年にジュノー、1880年にフォーティマイル、1886年サークル、1893年サンライズ、1895年ノーム、そして1898年にフェアバンクスでと次々金が発見、第一次ゴールドラッシュへと突入して行く。その他の産業も、1848年にキナイ半島で最初の採炭が行われ、1857年には積極的な石炭輸出となる。また1853年にはクック湾で石油の発見があった。1878年にはシトカ等で鮭の缶詰工場が出来、水産が活発化するが、それに伴って魚の木箱などに製材業が活発になり、木材の輸出へとつながって行く。ゴールドラッシュはアラスカの各地に道を造り、1914年にアラスカ鉄道の建設が開始、その基地としてアンカレジ市が誕生する。

 1942年6月に日本軍がアリューシャン列島のダッチハーバーを攻撃、続いてアッツ島やキスカ島を占領した。このためアメリカの軍隊はアラスカに進出、ゴールドラッシュに次ぐ人口の急増となる。この時、対日戦略としてアメリカ本土からカナダのユーコン準州を通過してアラスカに入るアラスカ・ハイウェイの建設が行われた。第二次世界大戦後、日本のアラスカ・パルプ会社が1956年シトカにパルプ工場を建設、アラスカの木材産業に貢献する。

 1968年、北極圏プルドー湾に石油とガスが発見され、1974年にここからアラスカ湾内海の港バルディーズまで 800マイルの石油パイプ・ライン建設が着工、1977年に完成した。こうしてアラスカは石油や木材、水産の産業で活性化するが、現在は石油の価格下落と木材不況のため、観光の活性化にも力を注いでいる。

 アラスカが合衆国の49番目の州に昇格したのは1959年1月3日のことで、時の大統領アイゼンハワーによって昇格宣言が行われた。1912年に準州になって以来、再三、州への昇格を申告していたが、半世紀近い年月を経て昇格した訳である。

 1989年3月24日、アラスカ湾の内海プリンスウィリアム湾でバルディーズを出航したエクソン社のオイル・タンカーが座礁、世界的な石油流出事故を引き起こしたことは記憶に新しい。


前へ旅コム目次アラスカ目次