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ミニ情報



 
「アウステルリッツ三帝会戦」記念イベント開催


 ナポレオンとロシア、オーストリア連合軍のアウステルリッツの会戦から今年で203年になる。歴史に名を残すアウステルリッツとは、チェコのブルノ市の近くにあるスラフコフ(Slavkov)のドイツ名で、毎年この時期になると各国から何千もの軍史愛好家が集まり会戦の再現が行われる。

 28日の晩は野営を、29日には町中を当時の軍服姿で行進し、戦場へと向かう。期間中には、会戦、町に戻っての花火とともに行進など、さまざまなイベントが行われる。また、30日には実際の戦場に建てられた慰霊碑(Mohyla Miru)で犠牲者を追悼するセレモニーが行われ、博物館では特別展も開催される。(2008年11月)

 
Austerlitz 2008
開催日  2008年11月28〜30日
開催地  スラフコフ
URL  www.austerlitz.org
 

 

 
チェコの「ダークツーリズム」スポット


 歴史上の悲劇や事故の現場となった場所を訪れる、いわゆる「ダークツーリズム」が最近注目されている。中欧地域ではポーランドのアウシュビッツが最も有名だが、それ以外にも1950年代に政治犯監獄だったヤヒモフ(Jachymov)、普墺戦争の戦場となったフラデツ・クラーロヴェー (Hradec Králové/独名ケーニヒグレーツ)、共産党支配に抗議し学生が焼身自殺を図ったヴァーツラフ広場、17世紀魔女狩り裁判が行われたヴェルケー・ロウニ城(Velké Louny)などが観光局によってリストアップされている。

 今回新たに紹介するのは、テレジンの町にある監獄だ。ここは18世紀に要塞として造られた建物が、ゲシュタポに接収され監獄として使われていた。第二次世界大戦時にはチェコのユダヤ人が一旦ここに収容され、アウシュビッツへと移送された。町の小学校はユダヤ博物館となっており、収容された子供たちの絵が展示されている。

 もう一つが、「リディツェの虐殺」の悲劇の舞台となったリディツェ村(Lidece)。1942年6月10日、ナチス秘密警察がリディツェ村を包囲し、ナチスのボヘミア総ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の報復のため、村の15歳以上の男性は全員射殺された。女性と子供も強制収容所へ送られ、村は完全に埋め立てられた。同じことが2週間後にレジャーキ村(Ležáky)でも行わている。 (2008年11月)

 

 

 
ヴィシェフラトの砲郭


 プラハ城の周りの庭園をはじめ、散策する場所に事欠かないプラハ。だが、ヴィシェフラトは格別の場所と言えるだろう。高台の公園からはプラハ城とヴルタヴァ川、プラハ市内が一望でき、町の喧騒とは無縁ののんびりとした空気が周囲を包み込んでいる。また、ここでは地下通路めぐりも体験できる。

 17世紀半ば、皇帝フェルディナント3世の命令で、ヴィシェフラトはプラハ市を守る要塞としての機能を持つように改築され、現在の姿になった。その後、オーストリア継承戦争の最中、1742年にフランス軍がプラハを占領。その時に軍隊が敵に知られずに移動することの出来る地下通路(kasematy)が、要塞であるヴィシェフラトに建設された。この地下通路の奥には広い空間があり、ガイドツアーを利用すると、1キロ弱のこの地下通路から奥の空間まで歩いて見学することができる。

 ガイドの後について入口を入ると、高さ2メートル、幅1.5メートルのレンガの通路が続く。圧巻なのは、通路をずっと歩いた一番奥にある空間。ここは、ゴルリツェ・ホールと名づけられている。急に視界が開け、地下にこんな広い空間があるのかというほどの場所である。

 軍隊の集合場所として、また武器や食糧の保管庫として使用された高さ13メートル、広さ330平方メートルのホールには、現在、カレル橋にある彫像のオリジナルの一部が保管されている。ちょっと変わったプラハ観光、市内散策の1つとしてヴィシェフラトの地下通路を訪れてみるのも良いだろう。(2008年11月)

 
Vyšehradu
開館時間 11〜3月  9:30〜17:00
4〜10月  9:30〜18:00
休館日  なし
入場料 地下通路ツアー  Kc 30
ギャラリー  Kc 10
URL  www.praha-vysehrad.cz
問い合わせ先  Tel:+420-241-410348 / 410247
 E-mail:info@praha-vysehrad.cz
 

 

 
チェコとオリンピック


 クーベルタン男爵の提唱で始まった近代オリンピック。1894年に開催された国際オリンピック委員会設立会議で任命された委員会メンバー12人には、このクーベルタンと親交のあったチェコ人が一人いた。イジー・グートという体育教師で、チェコは彼を中心にオリンピックに大いに関わっていった。

 当初1900年のパリ・オリンピックに向けた特別委員会として1899年に発足したチェコ・オリンピック委員会だったが、今日まで続く委員会となった。この頃のオリンピックは必ずしも「国」ごとではなく、「地域」や「個人」でも参加ができ、チェコは1つの「地域」としてオリンピック委員会が認められ、万国博覧会の付属として行われた第2回のパリ・オリンピックから選手を送っている。

 しかし、1914年の国際オリンピック会議で「国」ごとの参加方式が決まり、チェコはオーストリア内に入ることになる。第一次大戦でオリンピック開催中断後、チェコスロヴァキア共和国として独立し、それに伴い委員会もチェコスロヴァキア・オリンピック委員会と改めオリンピックに参加。1993年以降は、チェコ・オリンピック委員会となった。1999年にチェコ・オリンピック委員会は、当時のサマランチ国際オリンピック委員会の会長を迎え、プラハのカロリヌムで100周年を祝った。

 チェコ人が最初に表彰されたのは、第2回のパリ大会の男子円盤投げで2位だった。1924年のパリ大会でベドジフ・シュプチークが体操競技の綱登りで初の金メダルを獲得。日本人になじみのある選手は、エミール・ザートペク(陸上) 、ヴィェラ・チャースラフスカー(体操)、ヤン・ジェレズニー(槍投げ)だろうか。

 チャースラフスカーは2大会で計7つの金メダルを獲得し、ザートペクは2大会の5000メートル、1万メートル、マラソンで計4つのメダルを獲得した。ザートペクの妻のダナも女子槍投げで優勝している。今大会でも女子槍投げは優勝しており、また男子槍投げのオリンピックレコードは今大会で破られるまで、ジェレズニーが持っていた(世界記録はジェレズニーが保持)。彼はまた、ソウル、バルセロナ、アトランタのオリンピック3連覇を成し遂げている。 (2008年9月)

 

 

 
プラハの公共交通 5


 プラハに地下鉄が登場したのは1974年のこと。C線のフロレンツ駅(旧ソコロフスカー駅)〜カチェロフ駅間が開通した。1978年にはA線のデイヴィツカー駅(旧レニノヴァ駅)からナームニェスチー・ミール駅間、1985年にはB線のフロレンツからスミーホフスケー・ナードラジー間が開通し、それから徐々に3線とも延伸していった。

 市内交通を地下化しようという考えは第2次大戦以前からあり、どちらも路面電車を地下に走らせようというものだった。
この構想が具体化するのが60年代半ばになってからのことで、1966年に路面電車の地下走行用に始まった建設は次の年、当時のソ連から援助が受けられることになり、地下鉄建設へと変更する政治決定が下された。そして、1968年の「プラハの春」事件を経て、ソ連側の意向により車両はチェコのCKD社製からソ連製に変更・導入されるも、現在はシーメンス・アドトランツ・CKDのコンソーシウムが製造する車両に徐々に転換されている。

 既存の地下鉄路線のうち、A線は他2線に比べて短かく、そのせいか1989年以前からA線の終点デイヴィツカー駅から空港まで地下鉄で結ぶという案があるとささやかれていた。一時はプラハ・マサリク駅を再開発し、そこから高速鉄道を通すという考えも浮かんだが、結局地下鉄を通すことで決着した。
プラハ市の発表によると、総延長距離12.8キロ、新設される駅9駅、4つの工区に別けられ、最終的には2018年に空港までつながる見込み。市中心部(ムーステク駅)から空港まで約30分で結ばれる予定で、プラハ本駅と南のリブシ地区を結ぶD線の建設計画もあるという。(2008年8月)

 

 

 
プラハの公共交通 3


 プラハの人々にとって重要で便利な交通手段である「トラム(路面電車)」が登場したのは、19世紀の終わりのことだった。
1891年に開かれた内国博覧会の会期中、博覧会主導者の一人クシジークがレトナーからストロモフカまでの800メートルに路線を敷き、4分半で観客を運んだのがプラハのトラムの始まりだ。その後、路線は少し延長されたが、運行されたのは夏季のみだったという。

 トラムの定期運行が始まったのは1896年3月のこと。クシジークの会社がプラハ・フロレンツーリベニューヴィソチャヌィの路線を開き、6時から22時まで110分間隔の最高時速15キロで運行していた。

 翌年には、フラヴァーチェクが路面電車を運行する会社を発足。プラハ市は独自の公共交通会社を持つことを決め、「プラハ市電気企業」を設立し、オトレの路面馬車会社を買収。プラハージシュコフーヴィノフラディの路線を開通した。これが現在の「プラハ市交通企業」の前身となる。プラハ市内のトラム路線網は、第一次大戦前まで順調に発展し、乗客も増大していった。

 戦後、チェコスロヴァキア共和国が成立された。プラハは首都として近郊の36村を合併し、それに伴いトラム路線も拡大された。1938年には23路線、総路線距離258.5キロ、法定最高時速35キロで運行され、第2次世界大戦中の1942年には夜間運行も開始された。現在は走行されていないが、当時は旧市街広場やその付近、ヴァーツラフ広場もトラムが走っていた。また、1995年には総路線距離450キロを越えている。

 当初トラムには、運転手の他に車掌も乗車していたが、第一次大戦中は男性が戦争に招集されていたことから女性の車掌が登場した。車掌は乗客の間を回って乗車券を販売していたが、1950年代に導入されたT型車両では車掌の場所が設置され、乗客が車掌のところまで行って乗車券を買い求めたという。その後、1974年にこの車掌制度はなくなった。

 車両は、当初はリングホーフェル社、その後同会社の変遷に伴いタトラ・プラハ国営企業やCKDプラハ企業から調達された。お馴染みなのはCKDプラハのT3型だ。現在、トラムは平均時速19キロ(最高時速60キロ)で、日中24路線、夜間9路線、総路線距離559.3キロで運行している。(2008年6月)

 

 

 
プラハの公共交通 2


 現在の公共交通網の始まりとされるのは1875年の路線馬車。公共交通網の構築は、プラハが近代都市へと発展していく契機であった。

 19世後半になり、乗合馬車では発展する社会に対応しきれないと考えられ、路面馬車の運行計画が浮上した。1873年に政府から許可を取り、カルリーンとスミーホフを結ぶ路線の敷設を計画したが、オーストリアを襲った金融不況のため資金難に陥り、計画はベルギーの企業主エドアール・オトレの手に委ねられる。

 すでに南フランスのマルセイユで路面馬車の運行に関わった経験がある彼は、1875年9月23日午後、最初の路線馬車が現在の国民博物館からカルリーンに向かって出発した。この日がプラハ公共交通網の始まりとされる。

 操業当初は1路線の3〜4キロ、その後1885年までに6路線の約19キロに延長され、時速8キロで朝6時から夜10時まで運行された。6路線は色で区別され、切符にもそれぞれの路線の色が使用された(乗換可)。当初、技術上の理由からヴルタヴァ川を渡る路線はなかったが、1878年パラツキー橋完成後はその問題も解消した。

 路線馬車の運行はプラハっ子の人気を集め、乗合馬車は廃れていく。1891年の内国博覧会、1895年の民俗博覧会の開催時期には、多くの人々がストロモフカにある会場に向かうために、路線馬車を利用した。だが、この路線馬車も19世紀末に路面電車が導入されると、その地位を明け渡すことになる。

 最後に残った路線は、クシジョブニツケー広場からカレル橋を渡り、マラー・ストラナ広場に至る路線。これは技術上の理由から、カレル橋に路面電車を通すことができなかったからだという。そして、1905年5月12日に路線馬車の運行は終了した。 (2008年5月)

 

 

 
プラハの公共交通


 2008年は、プラハ市内の公共交通機関としてバスの運行が開始されてから100周年を迎える。

 現在の公共交通網の始まりとされるのは1875年の路線馬車だが、それ以前からすでに公共交通の乗り物として乗合馬車があった。
2頭立ての馬車が決められた路線を走り(路線馬車と違って線路上は走らない)、馬車には後方から乗り込み、中は中央に通路があって6列で座席が置かれていた。2階建ての馬車もあり、上の階は開放型だったという。

 1829年10月、ヤクプ・ホツェンスキーが領邦官庁とプラハ市から乗合馬車運行の許可をもらい、旧市街広場からカレル橋を渡ったマラー・ストラナまで30分間隔で走らせていたのがそれだ(運行開始時期は、すぐに始まった説と次の年説がある)。ただ、これは次の年には行われなくなり、その後乗合馬車の運行はいくつかの路線を走ったり、またやめたりを繰り返した。

 1845年に現在のマサリク駅が完成し鉄道が開通すると、それに合わせて乗合馬車も駅とホテルの間を、鉄道の出発や到着に合わせて運行されるようになった。その後1862年にプラハ・スミーホフ駅ができ、カルリーンからマラー・ストラナを通ってスミーホフへ行く路線は多くの人々が利用した。

 しかし、1875年の路線馬車の運行開始が、乗合馬車の転換期となる。路線馬車との競争の結果、徐々にその路線を減らさざるを得なくなった。それでも、1891年の内国博覧会の時には路線馬車が十分になかったこともあり、多くの客を会場に運んだという。この乗合馬車の運行は、1904年に終了している。

 乗合馬車の記録は資料が少ないこともあり、あまり語られることはないという。この後、プラハの公共交通機関として路線馬車(1875年)が登場し、路面電車(1891年)、バス(1908年)、地下鉄(1974年)と発達していくことになった。
 

 

 
コラム「プラハ城」


 プラハ城は、発掘調査や文献からプシェミスル家のボジヴォイが880年頃に建てたと見られている。

 ボジヴォイはプシェミスル家初代といわれ、その孫が聖ヴァーツラフ。10世紀頃からプラハ城はチェコの統治者の居城となり、11世紀頃に城の教会として聖ヴィートのバジリカが建てられた。これが、現在の聖ヴィート大聖堂となる。

 ルクセンブルク家のカレルが神聖ローマ皇帝となったとき、プラハ城は皇帝の公私の中心地として、現在の旧王宮部分などが整備された。また、次のヤゲウゥ家統治の時代には北側の塔が建設され、建築家ベネディクト・リートが王宮を増改築、ヴラジスラフ・ホールなどが造られている。

 その後、ハプスブルク家が統治するようになり、ルネサンス様式の建物が完成。16世紀には王の庭園やそれを取りまくヴェルヴェデーレ等の建物が整備され、ルドルフ2世の時代にプラハ城は第2の最盛期を迎えた。
ルドルフ2世は自分の宮廷をプラハに移し、収集した芸術品や学術資料を納めるための場所を王宮の北側に造った。これが現在のスパニッシュ・ホールに当たる。

 後に三十年戦争等でプラハ城は損傷を受け、その時期を境に城はあまり使われなくなったが、18世紀後半に大きな改築が行われ、1848年にオーストリア皇帝を退位したハプスブルク家のフェルディナント5世が退位後プラハ城に移り住んだ。

 1918年、チェコ・スロヴァキア共和国が独立してプラハ城は大統領府となり、1920年にスロヴェニア人建築家プレチニクにより改修工事が行われた。1989年以降、城内は順々に改修工事が行われている。 (2008年2月)

 
Pražský Hrad
住所  119 08 Praha 1
URL  www.hrad.cz
問い合わせ先  Tel:+420-224-371111 / 234-301111 / 726-211111
 

 

 
チェコ共和国がシェンゲン協定入り


 2007年12月20日から、チェコ共和国はシェンゲンゾーンに入り、陸路の国境でのパスポートチェックは廃止された。
2008年3月30日には空路も廃止される予定で、同日以降シェンゲンゾーンからの発着便については、パスポートチェックがなくなる。なお、このシェンゲンゾーンには、同時期にエストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランド、ハンガリー、マルタ、スロバキア、スロベニアが加っている。(2008年1月)

 

 

 
公共料金値上げ


 プラハ市内の公共交通料金が、2008年1月より値上げされた。市内地下鉄、トラム、バスは共通チケットで利用可能だが、この料金も値上げとなっている。(2008年1月)

 

 

 
郵便料金値上げ


 2008年1月より郵便料金が改定され、20グラムまでの郵便物はEU諸国宛が17コルナに、日本宛は18コルナに、50グラムまでのものはそれぞれ21コルナ、24コルナに値上げされた。詳細は、ウェブサイトを参照。(2008年1月)

 
Česká pošta
URL  www.cpost.cz
 

 

 
プラハの現代建築「ダンシングビル」


 プラハの新市街、ヴルタヴァ川河畔にある「ダンシング・ビル」は、そのユニークな外観から道行く人々の関心を引いている。

 「ダンシング・ビル」は、ザグレブ生まれのヴラド・ミルニチと、トロント生まれのフランク・ゲーリーによって進められ1994年から1996年にかけて建設された。中心となる建物は地上8階・地下2階で、屋上にはメデューサの頭に見立てたキューポラがついている。

 このビルは、塔の形の建物にガラスの塔が寄り添って踊っているように見える外観から、ハリウッドのミュージカルスターコンビの名をとり「ジンジャーとフレッド」と名づけられたが、一般的にはそれよりも分かりやすいチェコ語の「Tančící dům」(英語で「ダンシング・ビル(踊る家)」)という名称で親しまれている。なお、同ビルには、現在オランダの保険会社「ナショナーレ・ネーデルランデン」が入っている。(2008年1月)

 
Tančící dům
住所  Nové Město, Praha 2
URL  www.pis.cz/cz/praha/pamatky/tancici_dum
 

 

 
ヨーロッパ大陸初の馬車鉄道


 ヨーロッパ大陸で最初に馬車鉄道が走ったのは、南ボヘミア州の州都チェスケー・ブジェヨヴィツェとオーストリアのリンツの間。ドナウ川とヴルタヴァ川を結ぶ運河の構想は中世のカレル4世の頃からあり、産業革命の時代になって運河ではなく、リンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェを結ぶ馬車鉄道という形で実現した。

 工事は1825年に始まり、全線が開通して定期運行がスタートしたのは1832年のこと。全行程14時間の長旅で、朝5時にリンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェの双方から馬車が発車し、正午にオーストリア側のケルシュバウムで2台が交差、駅のレストラン(ヨーロッパで最初だそう)で昼食を取ってから出発していた。この路線で蒸気機関車が運行されたのは1872年9月1日のことだった。

 現在、馬車鉄道に関して残っているものはあまりないが、実際の線路跡がチェスケー・ブジェヨヴィツェから南に列車で30分ほどの小村に残されている。また、チェスケー・ブジェヨヴィツェ市内には「馬車鉄道博物館」がある。但し、2007年8月現在、同博物館は改修工事のため閉館している。 (2007年10月)

Koněspřežni železnice
住所  Mánesova 10, 37051 České Budějovice
URL  www.bujanov.cz
問い合わせ先  Tel:+420-386-354820 E-mail:muzeumcb@muzeumcb.cz
 

 

◇ 掲載の内容は予告なしに変更されることがありますのでご注意下さい ◇
情報提供:チェコセンター観光部
最終更新日:2008年11月7日
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