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| ミニ情報 | |||||||||||||||||||
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ナポレオンとロシア、オーストリア連合軍のアウステルリッツの会戦から今年で203年になる。歴史に名を残すアウステルリッツとは、チェコのブルノ市の近くにあるスラフコフ(Slavkov)のドイツ名で、毎年この時期になると各国から何千もの軍史愛好家が集まり会戦の再現が行われる。 28日の晩は野営を、29日には町中を当時の軍服姿で行進し、戦場へと向かう。期間中には、会戦、町に戻っての花火とともに行進など、さまざまなイベントが行われる。また、30日には実際の戦場に建てられた慰霊碑(Mohyla Miru)で犠牲者を追悼するセレモニーが行われ、博物館では特別展も開催される。(2008年11月)
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プラハ城の周りの庭園をはじめ、散策する場所に事欠かないプラハ。だが、ヴィシェフラトは格別の場所と言えるだろう。高台の公園からはプラハ城とヴルタヴァ川、プラハ市内が一望でき、町の喧騒とは無縁ののんびりとした空気が周囲を包み込んでいる。また、ここでは地下通路めぐりも体験できる。 17世紀半ば、皇帝フェルディナント3世の命令で、ヴィシェフラトはプラハ市を守る要塞としての機能を持つように改築され、現在の姿になった。その後、オーストリア継承戦争の最中、1742年にフランス軍がプラハを占領。その時に軍隊が敵に知られずに移動することの出来る地下通路(kasematy)が、要塞であるヴィシェフラトに建設された。この地下通路の奥には広い空間があり、ガイドツアーを利用すると、1キロ弱のこの地下通路から奥の空間まで歩いて見学することができる。 ガイドの後について入口を入ると、高さ2メートル、幅1.5メートルのレンガの通路が続く。圧巻なのは、通路をずっと歩いた一番奥にある空間。ここは、ゴルリツェ・ホールと名づけられている。急に視界が開け、地下にこんな広い空間があるのかというほどの場所である。 軍隊の集合場所として、また武器や食糧の保管庫として使用された高さ13メートル、広さ330平方メートルのホールには、現在、カレル橋にある彫像のオリジナルの一部が保管されている。ちょっと変わったプラハ観光、市内散策の1つとしてヴィシェフラトの地下通路を訪れてみるのも良いだろう。(2008年11月)
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プラハ城は、発掘調査や文献からプシェミスル家のボジヴォイが880年頃に建てたと見られている。 ボジヴォイはプシェミスル家初代といわれ、その孫が聖ヴァーツラフ。10世紀頃からプラハ城はチェコの統治者の居城となり、11世紀頃に城の教会として聖ヴィートのバジリカが建てられた。これが、現在の聖ヴィート大聖堂となる。 ルクセンブルク家のカレルが神聖ローマ皇帝となったとき、プラハ城は皇帝の公私の中心地として、現在の旧王宮部分などが整備された。また、次のヤゲウゥ家統治の時代には北側の塔が建設され、建築家ベネディクト・リートが王宮を増改築、ヴラジスラフ・ホールなどが造られている。 その後、ハプスブルク家が統治するようになり、ルネサンス様式の建物が完成。16世紀には王の庭園やそれを取りまくヴェルヴェデーレ等の建物が整備され、ルドルフ2世の時代にプラハ城は第2の最盛期を迎えた。 ルドルフ2世は自分の宮廷をプラハに移し、収集した芸術品や学術資料を納めるための場所を王宮の北側に造った。これが現在のスパニッシュ・ホールに当たる。 後に三十年戦争等でプラハ城は損傷を受け、その時期を境に城はあまり使われなくなったが、18世紀後半に大きな改築が行われ、1848年にオーストリア皇帝を退位したハプスブルク家のフェルディナント5世が退位後プラハ城に移り住んだ。 1918年、チェコ・スロヴァキア共和国が独立してプラハ城は大統領府となり、1920年にスロヴェニア人建築家プレチニクにより改修工事が行われた。1989年以降、城内は順々に改修工事が行われている。 (2008年2月)
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プラハ市内の公共交通料金が、2008年1月より値上げされた。市内地下鉄、トラム、バスは共通チケットで利用可能だが、この料金も値上げとなっている。(2008年1月) |
2008年1月より郵便料金が改定され、20グラムまでの郵便物はEU諸国宛が17コルナに、日本宛は18コルナに、50グラムまでのものはそれぞれ21コルナ、24コルナに値上げされた。詳細は、ウェブサイトを参照。(2008年1月)
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プラハの新市街、ヴルタヴァ川河畔にある「ダンシング・ビル」は、そのユニークな外観から道行く人々の関心を引いている。 「ダンシング・ビル」は、ザグレブ生まれのヴラド・ミルニチと、トロント生まれのフランク・ゲーリーによって進められ1994年から1996年にかけて建設された。中心となる建物は地上8階・地下2階で、屋上にはメデューサの頭に見立てたキューポラがついている。 このビルは、塔の形の建物にガラスの塔が寄り添って踊っているように見える外観から、ハリウッドのミュージカルスターコンビの名をとり「ジンジャーとフレッド」と名づけられたが、一般的にはそれよりも分かりやすいチェコ語の「Tančící dům」(英語で「ダンシング・ビル(踊る家)」)という名称で親しまれている。なお、同ビルには、現在オランダの保険会社「ナショナーレ・ネーデルランデン」が入っている。(2008年1月)
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ヨーロッパ大陸で最初に馬車鉄道が走ったのは、南ボヘミア州の州都チェスケー・ブジェヨヴィツェとオーストリアのリンツの間。ドナウ川とヴルタヴァ川を結ぶ運河の構想は中世のカレル4世の頃からあり、産業革命の時代になって運河ではなく、リンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェを結ぶ馬車鉄道という形で実現した。 工事は1825年に始まり、全線が開通して定期運行がスタートしたのは1832年のこと。全行程14時間の長旅で、朝5時にリンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェの双方から馬車が発車し、正午にオーストリア側のケルシュバウムで2台が交差、駅のレストラン(ヨーロッパで最初だそう)で昼食を取ってから出発していた。この路線で蒸気機関車が運行されたのは1872年9月1日のことだった。 現在、馬車鉄道に関して残っているものはあまりないが、実際の線路跡がチェスケー・ブジェヨヴィツェから南に列車で30分ほどの小村に残されている。また、チェスケー・ブジェヨヴィツェ市内には「馬車鉄道博物館」がある。但し、2007年8月現在、同博物館は改修工事のため閉館している。 (2007年10月)
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◇ 掲載の内容は予告なしに変更されることがありますのでご注意下さい ◇ 情報提供:チェコセンター観光部 最終更新日:2008年11月7日 |
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