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荒川 一郎さんのプロフィール



 1922年福井県生まれ。
 「将来のため英語ぐらいマスターすべきだ」という母親の強い意志に押され、早稲田中学時代に外人教師とのマンツーマン教育でいやいやながら英語を習いはじめたのが、語学との長い付き合いとなった。

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 日米関係の悪化で英米人教師が極端に少なくなり、米国生まれの日系人学生を多く受け入れていた明治大学に入り、英語研究部に席を置く。1942年全日本大学高専英語雄弁大会3位入賞、43年同準優勝と戦火が拡大する中での敵国語排斥の環境にもめげず頑張り通し、戦後、数少ない英語練達の士として活躍することになる習練を積む。国際会議等で堂々と渡り合うことのできる英語力は、そんな苦労の中で身につけた。

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大学卒業直前にいわゆる学徒出陣として召集され、海軍第14期予備学生(飛行要務)となる。終戦時は海軍中尉。海軍を選んだのは英語排斥が陸軍ほど極端ではなかったという理由だったが、入隊したところは戦死の確立100%だった。幸運にも命を拾う。

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 終戦から2カ月後、英語堪能者を求めていた日本交通公社に入社、外国部所属で「昨日まで敵」であった米国軍人・軍属、そしてその家族の旅の世話をするという皮肉なスタートをきることになる。
 当時、世界最大の旅行会社のひとつであったアメリカンエキスプレスの旅行部門が日本に進出したのに伴い、日本交通公社の推薦で同社に移り、副支配人、営業支配人、先任支配人など20年近くにわたり、旅行業に従事する。

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 1975年5月、香港政庁の外郭団体である香港観光協会の日本局長に就任、ショッピングの強要と危険で料理のまずい観光地として若い日本人女性から見向きもされなかった香港のイメージ転換作戦を起案、担当することになる。
 その苦闘を22万字の大作にまとめたのが、「旅コム」に連載されている「中国返還と香港観光の将来」である。
 その頃から「逆水行船 不進即退」(流れに逆らって進む舟は漕ぐ手を休めると瞬時にして流されてしまう。前身あるのみ)が人生のモットーとなる。信念の人である。

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 「香港観光協会を引退する時、香港の観光・旅行業者300人を前に最後のスピーチを行ったが、その時全員が立ち上がって送ってくれた大きな拍手が、一番嬉しかった。いつまでも続く大きな拍手が、長年の苦労を完全に癒してくれた」と振り返る。

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 香港観光協会名誉顧問、日本香港協会会員、日本旅行作家協会会員。趣味は写真と水彩画である。


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